高校地理の集落分野で、日本の村落の発達を勉強するときに最初に登場するのが条里集落または条里制集落です。生徒たちは、碁盤目状の土地区画といった話はすぐに覚えるのですが、条里集落が形態分類的にどうなっているのかは分かっていない者が多いと感じます。路村なのか塊村なのか、はたまた散村なのか。その辺りを解説します。
条里集落の成立
条里集落の成立は、大化の改新(645年〜)の班田収授法からとされています。大化の改新では、6歳以上の人民に、性別や身分に応じて決められた面積の口分田を貸与し、死亡した場合には回収するという制度が作られました。貸与される面積が決められたため、あらかじめ一定の面積で区切られた土地割が必要になりました。そこで、土地を等間隔に、つまり碁盤目状に区割りしたのが条里制の始まりとなります。
条里集落の形態
大化の改新では、人民を管理するため、50戸を一つの単位として里(さと)と呼び、里長(さとおさ)を置きました。里は10保に分けられ、1保は5戸から成り立っていました。5戸を最小の単位とする「5人組」のような制度は、この頃から存在していたわけです。
この50戸を、条里制で区切られた区画の中に集め、集村を作らせました。これが条里集落です。よって条里集落の多くは、方形か、それに近い形をとります。これを塊村と捉える人もいるのですが、ヨーロッパにおける自然発生的な塊村とは別物と言えます。とはいえ、そもそも集落を形態で分類するという概念自体がドイツで生まれたものであり、事情の異なる日本に無理やり当てはめる必要はないでしょう。現在でも、奈良盆地などの条里集落由来の集落は、30〜50戸で形成されているようです。
条里区画の大きさ
条里集落が作られた当時、長さを表す単位は尺でした。大化の改新の頃は高麗尺(こまじゃく)を使用しており、1尺が約36.4cmとなります。
初期条里制では、高麗尺の5尺を1歩とし、30歩 ☓ 12歩の360歩で1段としました。10段で1町とし、これを坪と呼びました。6町 ☓ 6町つまり36坪で1里となりますが、これは縦に数えるときには条(北から一条・二条…)、横に数えるときには里(西から一里・二里…)と呼びます。最大で36条・36里まで設定されていました。
この計算で行くと、縦1条・横1里の正方形は、約655.2m四方となります。昔の奈良盆地の地形図を見ると、綺麗にこのサイズで土地が区画されているのが分かります。また、一つの区画に対して一つの集落が作られていることも分かります。
条里集落の地名
高校地理では、集落の単元は地形図を使うことが多くなります。「碁盤目状」の土地区画だけですと、新田集落や屯田兵村の可能性もあります。ですので、地名から集落を読み解く必要もあります。(とはいえ、条里集落の地形図を一度でも見た人が、新田集落や屯田兵村と見間違えるとは思えませんが。)条里集落の地名としては、「条」・「坪」などが名前に付いたり、「十三」・「十五」など数字の地名になったりします。また単純に「〜垣内(かいと)」という地名になることもありますが、これは垣内集落といって、後述します。
条里集落の分布
条里集落がもっとも多く分布するのは畿内地方です。これは都の周辺ですので当然でしょう。次に多いのが瀬戸内海周辺から九州北部にかけてで、古代日本は九州北部から畿内地方にかけてが「国家」の中心であったことが分かります。中部地方から北関東にかけては、頻度は下がりますが、条里集落が見られます。東北地方には条里集落はあまり見られません。あっても多賀城(宮城県)のあたりまでです。九州南部にも条里集落は見られません。山陰地方は出雲までとなります。これらが、大和朝廷の影響力の範囲と言えるわけです。
条里集落のその後
条里制は公地公民という公有地制度で成立しており、これがうまくいかず、三世一身法(723年)や墾田永年私財法(743年)といった私有地制度に変わっていったことは皆さんご存知でしょう。また、もともと中国の大陸で生まれたこの制度が、土地が狭くて複雑な日本には必ずしも適していたとは言えません。他に、人口の増加に対して土地が不足したこと、土地を貸与したり回収したりする手続きが煩雑であったことなど、条里制が続かなかった理由が指摘されています。しかしながら、条里制で区画された土地割は、その後の時代にも残り続け、現在でも条里制当時の土地区画が見て取れることもあります。
環濠集落と垣内集落
条里集落の中には、集落の周囲を水濠や塀で囲ったものがあります。これを環濠集落とか垣内(かいと)集落と呼びます。水濠が作られた理由は、防護のためだけでなく、灌漑、防火なども考えられます。教科書や資料集で紹介される環濠集落は、奈良県大和郡山市の稗田集落で、地形図の読図でもほぼこの地域のものが使われます。ですので、必ず一度は地図で確認しておきましょう。地形図でなくても、グーグルマップ等で十分ですので、稗田集落の平面的な形を目に焼き付けておきましょう。古い地形図を見ると、稗田の環濠集落のすぐ東隣には「小美濃垣内」「大美濃垣内」という集村が見られます。
中世の豪族屋敷村でも、周囲を濠で囲った環濠集落が登場しますので、環濠集落イコール条里集落ではないことを補足しておきます。
