バノーニ計画は、イタリアの南北格差を解消しようとする地域開発(1955年~)のことで、バノーニ財務大臣(当時)の名前に由来します。本記事では、イタリアで南北格差が発生した理由からバノーニ計画の内容までを簡単に解説します。
バノーニ計画に至るまでの背景
バノーニ計画を理解するためには、イタリア経済で伝統的に言われ続けてきた南北格差を知っておく必要があります。ざっくりと分類してしまうと次のようになります。
北部 → 豊かな工業地帯(イタリア工業の三角地帯)・ポー川流域の資本主義的大農場
南部 → 大土地所有制(ラティフォンド)が残る貧しい小作農地帯
何故このような図式ができ上ってしまったのでしょうか。南部が遅れてしまった理由の一つが自然環境です。南部や島部は、山間地が多く平野の少ない地形で、新期造山帯であるアペニン山脈は急な傾斜をもっています。また地中海性気候のため、降雨は冬に集中し、樹林帯が発達しません。その限られた低木も人間によって伐採された結果、冬の雨が斜面を侵食し、低地は沼地と化してしまいました。この沼地にはマラリアが発生し、人間の居住に適さず、人々は山の上に集落を形成したのでした。
ヨーロッパでは、輪作の導入によって、二圃式、三圃式、混合農業と農業は発展していったわけですが、イタリア南部では輪作の導入が遅れ、粗放的な農業のまま時代が進んでしまったのでした。
このような自然条件であったにも関わらず、現代の北部イタリア人は、南部の貧困を南部イタリア人の怠慢さや無気力さが理由だと捉える風潮ができてしまったのです。このような南部蔑視は、19世紀後半のイタリア統一にまで遡ります。1861年のイタリア統一はイタリア北部のサルデーニャ王国が主導したため、南部の開発は後回しにされたのでした。(私が知り合ったミラノ出身のイタリア人女性も、南部人に対する憤りを語っていました。)
気候:地中海性気候 → 夏に乾燥して農業に向かない
地形:新期造山帯 → 低地が狭く沼地に、マラリアの発生、斜面も侵食が激しい
歴史:イタリア統一 → 北部が主導
バノーニ計画とは何か
上記のように立ち遅れていた南部の発展および南北格差の解消は、南部イタリア人による自助努力だけで解決できるものではありませんでした。そこで、第二次大戦後に「新南部主義」という主張が生まれ、国が主導して南部開発を進めることになったのです。
新南部主義者の主張:国が介入して南部を工業化することが、イタリア経済全体の発展につながる
この流れの中で1955年に国が発表したのが、雇用増大と工業投資のための長期総合経済開発計画(1955~1964年)です。この計画の中心となったのがバノーニ財務大臣(当時)だったため、この計画は「バノーニ計画」と呼ばれるようになりました。
ちなみに、地域格差是正のための地方開発という位置づけですと、日本の全国総合開発計画(全総)、韓国のセマウル運動、中国の西部大開発も地理の授業に登場します。
南部開発の目玉事業
〇 国有企業ENI社によるジェラ(シチリア島)での石油化学コンビナート建設(2014年に閉鎖)
〇 国営企業フィンシーデル社によるタラントでの鉄鋼コンビナート建設→臨海指向型鉄鋼業
〇 自動車高速道路(アウトストラーダ)の建設、とくにミラノ~ナポリ間の「A1」(通称:アウトストラーダ・デル・ソーレ「太陽の高速道路」)
その後の動き
バノーニ計画によって南北格差が解消されることはありませんでしたが、南部開発と公共投資には一定の評価が得られましたし、この期間のイタリアは「奇跡」と称される経済発展を遂げました。そのためイタリア政府は、バノーニ計画に次ぐ「1965~1969年の経済発展に関する5か年計画案」(ピエラッチーニ計画)を決定しました。これは長期的な計画の一環で、その後の1970年代以降の計画に受け継がれていく計画でした。しかしこの頃からイタリアは経済危機に突入し、国家の介入による南部開発という計画も、1980年代に民営化の時代を迎えたのでした。