「田園都市構想」から「大ロンドン計画」までの流れを解説します

「田園都市構想」から「大ロンドン計画」までの流れを解説します

田園都市構想と大ロンドン計画は、似ている部分も多いため、受験生が混乱する単元の一つです。また、高校の都市地理は暗記事項が多く、ロンドンの事例学習はおろそかになりがちです。本記事では、ロンドンの歴史の中で、田園都市構想から大ロンドン計画までの約50年間の部分に注目しています。 

田園都市構想(1898年) 

   田園都市(garden city)は、文字通り緑が豊かな都市のことです。一般名詞としても使われますが、固有名詞として使われる場合には、1898年にイギリスの都市計画家ハワードが提唱したものを指します。 

  ハワード:田園都市構想を提唱したイギリスの都市計画家(1850-1928)。 

   田園都市構想が提唱された1898年頃のロンドンは、シャーロックホームズの舞台となった時代です。ホームズの原作や、原作を再現した映画・ドラマ等を観ると、当時の様子がわかります。当時としては大都市で、美しい街ではありますが、都市環境が悪化している様子も見て取れます。 

 ハワードの田園都市構想の特徴は、ただ単に緑(森、公園、農地など)が多いということだけではありません。大切な点は、「職住近接」と呼ばれる考え方にありました。 

  職住近接:職場と住宅が同じ都市の中にある。遠くの大都市まで通勤する必要がない。 

   ハワードの提唱した田園都市として、イギリスに実際に作られた集落が2つあります。レッチワースとウェリン・ガーデン・シティです。どちらもロンドンから見て北方の郊外に作られた集落です。受験地理では、圧倒的にレッチワースが出題されることが多いですね。 

日本における田園都市 

  日本では、1918年に渋沢栄一が田園都市株式会社を設立しました。この会社が都市開発したのが洗足田園都市と田園調布です。 

洗足田園都市:東急目黒線の洗足駅を中心に広がる住宅街。目黒区、品川区、大田区。 

田園調布:東急東横線・目黒線の田園調布駅を中心に広がる住宅街。大田区。 

   これらの地域は「緑が溢れる郊外の住宅地」ですので、どちらかというと一般名詞としての田園都市です。しかし、ハワードの提唱した職住近接という特徴を備えていませんので、レッチワース等と並べるのは適当でないのかもしれません。 

大ロンドン計画 (1944年)

   1944年、ロンドンで新しい都市開発の計画が策定されました。それが大ロンドン計画です。1944年というのは第二次世界大戦の終盤にあたります。ロンドンは戦時中、ドイツの爆撃を受けており、ロンドン全域で街が破壊され、人々は生命、住居、職を失ったのでした。ロンドン当局は、街を計画的に作り変えるには絶好の機会だということで、都市再開発を企画し、パトリック・アバクロンビーという都市計画家が計画を作りました。大ロンドン計画はアバクロンビー計画とも呼ばれています。 

 この計画の特徴は、ロンドン都市圏の外側にグリーンベルトと呼ばれる緑地帯を作り、そこでの都市開発を許さず、グリーンベルトの外側に作られた新しい都市「ニュータウン」が戦時中に家を失った人々を吸収するというものでした。ここではハワードの田園都市の思想が継承されており、ニュータウンもまた職住近接を理想としたものとなっています。 

 グリーンベルト:ロンドン都市圏を取り囲むように設置された緑地帯。樹林、農地、公園などになっている。これによって、ロンドンにおけるスプロール現象を抑制している。 

大ロンドン計画におけるニュータウンの例 

北部:ハーロー、スティーブニジ、ハットフィールド 

西部:ブラックネル 

東部:バジルトン 

南部:クローリー 

 

日本におけるニュータウン 

   日本も大ロンドン計画の影響を受け、1950年代からニュータウンの建設が始まりました。しかし日本の場合、田園都市と同様、職住近接の概念はなく、都市部で働く人のためのベッドタウンと化しています。 

 

関東:多摩ニュータウン、港北ニュータウンなど 

関西:千里ニュータウン、泉北ニュータウンなど 

まとめ

  ロンドンの都市開発は、ここにあげた田園都市構想や大ロンドン計画だけでなく、インナーシティ、ジェントリフィケーション、ウォーターフロント、ロードプライシングなど、高校地理の都市分野のネタの宝庫です。先生方も、ロンドンの話だけで1時間の授業を作れてしまいそうですね。 

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